移住への布石 後編 〜外国へ足を踏み入れたのをきっかけに〜


中学、高校と英語が好きで、学校に来る Native Speakerの先生に、よく話しに行った。

高校の卒業後は、海外の大学に行きたいと思って、土曜日の授業を休んでTOEFLのテストを受けに行ったのを覚えている。
高校3年生の文集で書いた将来の夢は、国際連合で働く事だった。

けど、大学に入ってからは、帰国子女や、僕より英語を話せる人が大勢いて、英語への熱は冷めていき、
バイクやバイト等に興味が移っていった。

そんな中、バイクで北海道をツーリングしている時、海外でバイクを走ってきたと言う人に何度か出会った。
特に、「オーストラリアを走ってきた」と言う人と話する機会は何度かあり、
自分もいつかスケールアップして、オーストラリアをバイクで走りたいと思うようになっていた。

そんな気持ちもあり、大学2年の秋、3年目を1年休学して、オーストラリアにワーキングホリデーで行こうと決断したのだった。
が、色々な事にモヤモヤしていた多感な20歳前後の時で、結局その決断は挫折してしまった。
そして、いつしか「オーストラリアをバイクで走りたい」というのも、実現不可能な夢のまた夢状態になってしまっていた。

ただ、この時の挫折感は、今の僕に非常にプラスになっている。
この行こうと思ったが結局実行出来なかった事に、その後後悔していた。曇った気持ちが晴れるまで、1年以上かかった記憶がある
その経験から、迷ってもやりたいと思ったらやろう。どうせ後悔するなら、やって後悔しようと、思うようになった。
その時を境に、決断し、成し遂げる力がつき始めたのだと思う。今回の家族で移住する時も、その決断力は大いに発揮できたと思う。

又、この時、バイクでオーストラリアを走りたいと思ったのも、今考えてみると、今回のオーストラリア移住の布石だったと思う。


実際、この4年半後に社会人を辞めて、実際オーストラリア大陸にtryすることになるのだが(バイクではなく自転車だが)、
その決断出来た背景には、大学卒業時の、初めての海外一人旅が大きく影響している。

その初めての海外、初めての海外一人旅の行き先は、バックパッカーとしてのインド1ヶ月の旅だった。
ちょうど、猿岩石が出て、ユーラシア大陸を旅するテレビ番組が始まる1年程前の頃であり、バックパッカーが広く認知される直前の時代だった。

経由地のバンコクで宝石詐欺にあったり、インドでも強烈なculture shockを受けたり、ホームシックにかかったり、
ネパールに逃亡したり、初海外デビューした自分に、容赦なく精神的な試練を与えた。
楽しむと言うより、毎日必死で必要以上に肩に力の入った旅だった。楽しい旅というより、今考えても苦しい事の方が多かったが、意味のある旅だった。

よく、「インドを旅すると人生観が変わる」と、聞いていたが、僕は、幸か不幸か、大きく人生観・価値観が変わったのだ。

インドを中心としたこの旅で、日本で生活してきた中で養った価値観が、大きく変わった。
目の前にある物がすべてと思っていたが、世界に出ると、僕の見ていた世界と言うのが非常に小さいのだなーと感じた。

世界が、こんなに広いのに、日本の中の、その中での、ほんの小さな世界でとどまるのは、井の中の蛙 と思うようになっていた。
その価値観が良いかどうかは、わからない。けど、「そう自分は思ったのだから、行動しなくては!」と、思い、
その数年後、オーストラリア大陸自転車で横断につながっていくのだった。



いや、実は、もう一つ大きく僕の人生観を変えたものがあった。僕の人生に多大な影響を及ぼした事件だ。
この事件もなければ、おそらく、今アデレードにいなかっただろう。 人生の進む道も大きく変わっていただろう。
そんな事件とは、自分の18年間育った地、神戸で起こった阪神大震災だ。
僕は、大学を関東で過ごしていたが、たまたま、あの、今も忘れない1995年1月17日 午前5時46分 神戸の実家にいた。

その前夜から、僕の実家の部屋で、久しぶりに中学時代からの友達、ヒデキとコウタロウとで遊んでいた。
5時半になり、「そろそろ帰るわ」となり、玄関まで見送った。 雪がちらつく、寒い夜だった。
冬の朝5時代は真っ暗なはずなのに、なぜか明るく、又、やたらと多くの犬が遠吠えしていたのが印象的だった。
話は脱線するが、地震の前触れはあるのか?という問いに、僕ら3人は、この大地震発生15分前の不思議な雰囲気を経験したから
前触れはあるのだと信じている。

さて、、話は戻るが、友達を見送った後、眠ろうとしたが、朝方まで騒ぐと、目がさえてて眠れない。
とりあえず、部屋の電気を消して、目をつむる。「これは、眠るのに時間がかかるな・・・」
それから、5分位経っただろうか・・・・ さっきまで騒いでいた心も完全に落ち着いてきた。

そんな中、本当に何の前触れもなく、いきなり地面から突き上げられたような衝撃を受けた。
その後、その揺れが2、30秒続いた。

揺れながら、核戦争が始まったか、地球が他の惑星とぶつかったのだと思ったのだ。地球の崩壊の時がこんなに前触れもなく来るとは・・・。
僕は、死ぬのだなと思った。 僕が・・・と言うより、人類が死ぬのだなと思った。

地球滅亡の前に、天井から吊るしていた大きなシャンデリアが揺れていて、それが頭に落ちてきて死ぬかも・・・とも思った。
揺れで動けないが、それでも必死で、壁際に体を寄せつけた。 
当時、二十歳前後だったと思うが、いい年した男のはずなのに、思わず「お母さん!」と叫びそうだった。
寸前の所で、口から止めたが・・・

今でも、あの揺れを思い出すと身震いがする。

揺れが終わったが、停電になった。 家族の全員が無事である事が確認でき、少なくともこの家の周りは、
今の段階では大丈夫という事がわかった。
今から考えると笑い話だが、ラジオを聴くまでは、
「神戸は被害が軽く済んだが、放射能や地球に氷河期が訪れる等の二次被害で、遅かれ早かれ僕達もやばい・・・」と思っていた。


あの地震がおきた30分後に、僕と弟は原付を二人乗りして、もっともひどかった被災地・長田に向かっていた。
まだ、神戸だけは、震度情報が入ってこず、ここまで被害が大きかったとも、分からなかった時である。
ただ、カーラジオから、「東須磨でマンションが倒れています。長田で列車が脱線しています」という一報を元に、この時はまだ野次馬気分だった。

長田に着くと、ひどい状況であった。戦争で空襲を受けたかのようだった。ただ、火事は一部しか発生してなかった時である。
(その後、風により被害が拡大。翌日まで燃え続けた)
消火活動に向かう消防車が倒壊して崩れた家や電信柱が障害になって、進めなかったり、
風が非常に強く、火が隣の家、隣の家へとドンドンと広がっているのだ。
その中で、建物の中に残っている人を弟と一緒になって助けたりした。


震災後、水やガスが復旧するのに、時間がかかり、今まで欲しいと思っていたかっこいいスポーツカーやおしゃれなブランド品より、
生きていく為の生活物質と助けあう人とのつながりが重要になった。
究極な状況に近い生活を経験し、今まで持っていた色々な価値観が崩れた。

あの阪神大震災により、6400人以上の人がなくなった。僕が生き残ったのは、運が良かったのだと思っている。
この時を境に、必要以上に、物を欲しがる、特にブランド品等の他人を意識した物を持っても、意味がないなーと感じるようになった。
言い方を変えると、物は無くなったり、壊れたりするけど、思い出や経験、夢は、心の中にあるので、壊れる事はないと思っている。
又、いつ自分の人生が突然終わるか分からないのに、自分のやりたい夢を先延ばしにするのは、後悔するなーと思うようになった。
死んでいたかもしれない・・・ その時の状況から比べたら、たとえ夢に挑戦して破れて、一文無しになっても、
生きていけるパワーさえあれば、それは、幸せであると思っている。

そんな色々な価値観が背景にあって、今オーストラリア・アデレードにいるのだと思う。



震災後の長田の風景

2005年9月3日
KAPPA